世界は贈与でできている【ボランティア、偽善者、見返り、お金で買えないもの】

おはようございます。”おこめさん”です。

最近読んだ本が個人的に衝撃的だったので、今日はそれを読んだぼくの頭の中を整理しながら、記事を書いていきます。

著者と少し違うニュアンスで受け取ってしまっている部分もあるかもしれませんが、この記事が本を読んだ上でのぼくのアウトプットです。

参考

おこめさん→教員10年の後、4月から独立、6月からオンライン塾を開校予定。2021年3月末まで半年間の育休取得の2児のパパ。

贈与とは

筆者は贈与のことを お金で買えないもの と定義しています。

お金で買えないものってすごく大雑把なくくりですが、例えばこんな例があげられます。

親しい人から誕生日に腕時計をプレゼントされたとします。

この腕時計は、モノとして考えるとお金で買えるただのモノです。

しかし「贈り物」として手渡された瞬間ただのモノではなくなります。

プレゼントされた腕時計をどこかでなくしてしまったり、壊してしまった時にまったく同じ腕時計で換えが効くとはどこか思えない気持ちが芽生えています。

つまり、商品の価格や価値以上の余剰分の気持ち的ななにか(ぼくのために選んでくれた、誕生日の時にもらったという思い出など)が商品の上にのっているわけです。

ここで大事なことは、この余剰分は誰かに与えてもらわなければ手に入れることができないということ。

他から贈与されることだけでしか、本当に大切なものを手にすることができない ということです。

お金で買えないもの 愛とか 感動とか つながりとか ぬくもりとか

そういった全ての お金で買えない大切なものは

自分以外の誰か(または自然)からしかもらうことができない というのです。

贈与の始まり

では自分に対して贈与してくれた人はどうしてそれを与えてくれたのかを考えていきます。(特段与えようとしていないことも含む)

それは、その人も誰かに贈与されたから なんです。

誰かから受け取った贈与というものに気づき、それに対してなんらかの負い目を感じ(こんなにも受け取ってしまった)るからこそ、誰かに対してまた贈与したいと思う。

この点から筆者は 「世界は贈与でできている」と言い切るのです。

(また市場経済の隙間にこそ、贈与が存在することができて、だからこそ市場経済も必要であるということも書かれていました)

見返りを求めること

贈与というのは誰かから、どこからか頂いたものに対する返礼でした。

つまり 誰かに贈与することが その人にとってのある種のゴールなわけです。

100円いただいたから 100円を誰かに渡した

それだけなんです。

そこに見返りは必要ありません。

むしろ100円返ってきたら、またそれを送り返さないともらいっぱなしになるからです。(そういう意味で直接的な贈与はその瞬間に見返りを受け取ってしまうのでさり気なさみたいなものが必要)

誰かに贈与するとき、(やさしくしたり、愛情を注いだり、贈り物を選んだり)見返りを求めてしまうというのは、
そもそもその人自身が自分がもらっている贈与に気がついていないのに施そうとしてしまっているという無理が往々にしてあるわけです。

また、見返りをもとめることというのはそもそも贈与(お金で買えない大切なもの)ではなく、等価交換です。

市場経済にのっとって、誰かに与える(当然、その分の対価は払ってね)

という行動であり、これは贈与ではありません。

もちろん、これを否定してしまうと世の中のサービスが崩壊してしまいます。

大事なのは、それを贈与ではないと頭で理解しておくことです。

偽善者

善を偽る者(そう見えるもの)

これはまわりがどう見るかなので、難しい話なのですが、

自分の頭の中を整理すると次のようになります。

見返りを求める行為は等価交換です。

それを偽るからだめなので、〇〇のために▼▼しているといえばいいのです。

自分のためにしています

ボランティアでやっていますが、見返り(感謝の言葉をもらえる、なども含む)をもとめてやっています 的なことです。

これらは偽善とはいわないはずです。

対価交換を求めて行っているということを自分でも理解するし、まわりにも伝える。

こうすることで偽善者というある種のレッテルはなくなるのではと思います。

本当の善を行うときに気をつけないといけないのは、あくまでも出発点。

世界からうけた贈与に気づき、それを世の中に返そうとすることだけが確かなきっかけになりうる

そうでないと、贈与とはならないし、

そのように贈与と偽った行為はいつか疲弊し、自己犠牲になってしまいます。

(うけとったからその分をどこかに返す。ただそれだけ。見返りはいらない。)

大事なこと

それは

贈与に気づく 

という点です。

すでに贈られているものに対して気づくという出発点なしに、自らが贈与者にはなりえないわけです。

誰かからこんなにも頂いてしまったというある種の負い目が、半強制的にその人を贈与者にさせるからです。

つまり、他の誰かに贈与の心や贈与を強制することに意味はありません。

相手がまだ贈与に気がついていないのに、「誰かに無償に施せ」も同じです。

大事なのは、本人が贈与に気づくこと(気づけば自然と次につなげる)

贈与に気づくため

そのために学ぶことが必要と筆者はいいます。

気づくためには世界と出会う必要があると

そして、それは子どもたちだけに課せられたものではなく、大人であっても同じです。(世界と出会い直す)

筆者がすすめる具体的な方法は「歴史」を学ぶことです。

その中で「もし自分がその世界に生まれ落ちていたら、この目には何が映るのだろうと考えること」だといいます。

世界を知れば知るほど、自分が世の中からいただけている贈与という存在に気づくことができる。

「自分はたまたま先に受け取ってしまった。だからこれを届けなければならない」

気づけばそれが自らの使命、生きる意味となります。

ぼくはこれからも学び続けます。

今日もここまで読んでくださってありがとうございました。

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